私は、アメリカから帰国してもうかれこれ18年以上も日本で暮らしていますが、私の半分の年齢の若い日本人が「頑張る」という単語を使っていることに正直驚いてしまいます。今回は、このような努力信者に対して反論をしていきたいと思います。
一方、「会社や上司から努力を認めてもらえなければ判断基準は結果論だけになる」という意見もあります。しかし、問題は基準に根性論を押し付けていることだと思うのです。なぜなら、具体的に「いつ、どこで、何を、どのように努力するか」などについてほとんどの日本人がたいして考えていないことを知っているからです。
言い方は悪いかもしれませんが、実際に頑張っても頑張ってもどうにもならない方がいます。中には、日常生活ですら注意散漫で、仕事場でも多くのミスをする方がいます。しかもミス自体に気付いていないケースも多く見受けられます。いずれにしても、すべてメモに書いてできるかぎり頑張ってもこのようにどうにもならないというわけです。
だから、どうにもならない方には「頑張れ」などとは言わずに、「向いていない」と、切り捨てることも大事だと思います。見放すという意味ではなく、相手に無意味な負担をかけさせないためにも見切りをつけるということです。
そもそも「頑張れば誰でもできる」というのがスタート地点の間違いのように思います。初心者が平均くらいにはなるかもしれませんが、それなら得意なことを伸ばした方が良いわけです。まずスタート地点が間違っているためにその方を追い詰めてしまうのは無責任としか言いようがありません。
心身の問題で行動範囲が狭い人がいることもあり、その人が自分のペースでやれるだけやってみて、その結果、根本から向いていないのであれば違う道に引導を渡してやるのも優しさだと思います。
それでも上を目指したい人は自分で努力していけば良いわけで、恩師でもない限り、他人が誰でもできると期待するのは考えてみればおかしなことです。つまり、人は何かしら平均以上の能力を持っている分野があるということです。
世の中には数え切れない働き方や生き方があるわけですが、何かに向かないものが何もない人などこの世にはいません。このように、どこかに適所があるわけでそこで働き続けるよりも適所で働く方が合理的だということです。
私の場合、結果的に適所だと思う分野が語学学習や情報リテラシーだったわけですが、社員を見ていると努力することを軽視するわけではなく、ただその場で努力し続ける前提でいること自体に間違いがあるように感じてしまうことが多々あります。
つまり、「努力をすれば誰でも成長できる」というのは単なる日本人特有の精神論でしかないわけです。努力することを前提としつつ、「いつ、どこで、何を、どのように努力するか」を慎重に考えてから精神論の話をする方がよっぽど生産的です。
そもそも自分が頑張るべき時期、場所、分野、そしてペースなど適所を探すことにもう少し労力を使うべきです。なぜなら、それでも必死になってやってみれば平均くらいの能力は得られるかもしれないからです。
例えば、サラリーマンに向いてないと分かったからこそ、それ以外の道を探した上で経営者として、あるいはフリーランスの方が向いていることもあります。今の日本では頑張っても成長できない人も多くいますが、簡単にメンタルヘルスを損ない、やがて鬱病にかかってしまう方も多くいます。
どうせ頑張るのなら、「いつ、どこで、何を、どのように頑張るのか」を考え、無能ならなおさら自分の道を模索するべきです。有能であればどの分野でも努力すれば平均以上の結果を出せる可能性がありますが、無能であれば可能性などないわけです。
|