中立な視点で正しい情報を伝える文章も良いですが、主観的で感覚的、そして自分勝手に他人の感情に訴えかけるような文章も良いものです。
当然、客観的データを引用することが悪いなどということはなく、自分の意見をサポートすることは一般的であって、事実を伝えるための手っ取り早い手段となっています。特に、教育などお金が絡む情報などは客観的であるべきだと思うわけです。
しかし、データというものは誰でも好きなように解釈できることを忘れてはいけません。実際に、都合の良いところだけカット&ペーストでき、因果関係が不明であっても無理やり話をこじつけることもできてしまいます。
日本のマスメディアで報道されるいわゆるフェイクニュースにしても、「データが裏付けている」という分析が多用されていますが、詳しく検証してみると報道とは全く異なる結果になっている統計が公表されることもあるわけです。
つまり、事実が先にあって、それに合わせて客観的に分析しているのがテレビや新聞、雑誌などのマスメディアの方法ということです。しかし、主観的な意見に説得力をもたそうとして都合が良いだけの客観性を加えて報道するというやり方についてはどうしても違和感を感じてしまいます。
ところが、世の中には客観性を加えてあげないと、「主観的すぎる」という理由で文章をまともに受け取ってくれない方がいます。簡単に言えば、「自分の意見が正しいと思っている者が書いた文章」という見方をしているというわけです。
さらに、個人的な意見ではなく、それが客観的事実だと読み手に誤解させるケースもあります。他人に自分の意見を押し付けるための悪知恵と思われることさえあります。
要するに、刺激的で強い言葉を使うから説得力が生まれるわけではなく、論理的な文章が説得力を生むということです。そして、主観的な意見を述べた論理的文章っていうのは両立できることがわかるはずです。
ここ数年で考えると、日本人の傾向として明らかに目立っているのが、安倍政権が徹底したマスメディア・コントロールを行ったことです。それは単に安部政権に対して否定的な人材を抑え込むためだったこともあり、当初はマスメディア側も抵抗していたように思いました。
しかし、株価(日経平均)という分かりやすい指標を錦の御旗に掲げた安倍手法に対する支持率は衰えることがなく、結局は視聴率や売上部数という商業主義的な思考からマスメディア側が何も言えなくなってしまっています。
つまり、ヘーゲルの法則である「正・反・合」という民主主義にあるべきプロセスが安倍政権により消失してしまったわけです。
実際に、1980年代以降の日本のマスメディアは政府に対して否定的な人材を育て過ぎたことで、マイナスにはマイナスとして徹底すべき流儀があるにもかかわらず、それをあえて表舞台に引き摺り出し、新たにプラスにしてしまうという行為を次々に繰り返しているように思います。
その結果、マイナスとして磨かれるべき人物までもが枯渇し始め、日本ではプラス・マイナスともに真の人材が存在しなくなってしまっています。しかも日本だけではなく、グローバル社会というのは3つの構造から成り立っており、まずはマスメディアが報道し、たいていの人々はこの情報レベルに真実に満足し、それ以上を知ろうとはしないことです。
しかし、それだけでは決して満足しない人たちはインターネットを駆使して、公開情報と非公開情報の謎解きにより真実を解き明かそうとします。そこではもっともらしい論理と仮想敵が設定されていて、善悪がはっきりとした構造の中で多くの人々が納得してしまうわけです。
実は、本当の真相はこれら2つのレベルにはなく、深層に到達出来る人達はほんの一握りである中で、そこで見えるのは本当の全体像で、マスメディアやインターネットの世界からついに英語や外国語で書いてある文献の世界へと入り込むことで真相に至るわけです。
最後に、私は自分勝手で感覚的な文章がより評価がされることを願っているところがあります。主観性といっても最低限のマナーや社会倫理は守るべきですが、「好きなものは好き」というのは変わらないということです。
感情の動きが明確なら主観的でも説得力があり、逆にいくらデータに基づいていても論理的に支離滅裂なら説得力などありません。この際、主観的な文章への風潮について少し変化が欲しいとことです。楽しみ方と必要とされる状況がそれぞれ異なるからこそ、変わっていくべきだと思います。
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