2020年に東京オリンピックが開催予定ということで、最近は中学・高校生アスリートがテレビや雑誌などで注目されています。そういった番組や記事では、強制英才教育を、親子二人三脚の挑戦、などとして取り上げられます。
次世代を担うアスリート特集では、ほぼ同時に子どもを支える親も取り上げられます。それが食事面のサポートや車での送り迎え程度なら良いのですが、一部の親は、子どもの意思に関係なく、自分の夢を勝手に子どもに押し付けています。
例えば、物心つく前から野球のボールを握らせたり、ゴルフのパターを持たせたり、まだ体が出来ていない子どもに練習させています。そのような場面をメディアは親子鷹と称賛します。親の努力があったから子どもが結果を出せたと言いたげです。
特集される子どもというのは基本的に、ある程度育成に成功していています。だからテレビや雑誌などで注目されているのでしょう。子どもも成功してるからこそ、親への感謝を表し、親は自分のやり方が正しかった、子どものためになったと確信します。
しかし、これこそが家族の機能不全を招いていると思うのは私だけでしょうか。子どものためにと行った教育でも、そこに子どもの意思がなく、それが過剰だった場合、それは親の自己満足でありエゴでしかありません。愛情は免罪符にはならず、自分で選択できない年齢の子どもの人生を勝手に決めるのは、罪深いことだと思います。
特集されている子たちのようにある程度成功したならまだしも、親に敷かれたレールに無理やりのせられたけど成功できなかった子どもたちもたくさんいます。子どもの意思を無視して、小さいころから強制的に英才教育を施したスポーツ選手や芸術家の親は、優秀な教育者扱いをされます。子どもの人生を歪めた親が、なぜ我が物顔で教育論を語れるのでしょう。
親による英才教育により、物心つく前からテニスラケットを握っていた錦織選手やゴルフの石川選手、そして卓球の福原選手などは明らかにおかしいと思います。
欧米の英才教育は、親がカネを出して専門家の教育を受けさせるイメージがあります。しかし、日本ではそういった環境がないことから、親が子どもに英才教育を施そうとしている印象があります。実際、親の影響を受けて大成したスポーツ選手もいますが、大成したからといって親が勝手に子どもの人生の選択肢を奪っていいことにはなりません。
日本は、子どもは親に従うべきという風潮が強いですが、子どもはいつまでたっても子どもであり、自立した人間としては見られることはありません。「子どもの人生を親が決めること」「子どもが人生を選ぶ際には親の許可が必要」という認識があるからです。
子どものためを思ってと言えば、どんな理不尽な親の言い分も子どもは受け入れるべきであるとされています。それを受け入れなければ親不孝になります。幼い子どもにとっては親はすべてです。親が強制すればやるし、うまくできて褒めてくれるならがんばるものです。
しかし、強制英才教育を受けることにより、子どもの人生の選択肢は圧倒的に狭まることになります。なぜなら、親にはその分野のことしか教わらなかったからです。場合によっては進学先や就職先も決められることになります。こうなると、子どもの人権無視として問題にならないのが不思議です。
例えば、娘の結婚相手が日本語を話せない外国人だからと親が反対して破談にしたり、公務員になってほしい親とミュージシャン志望の子どもが衝突したり、経済学部に受かったのに親が勝手に医学部入学の手続きを進めるということもあります。
お金を出すのが親なら話し合いは必要ですが、親が子どもの人生を勝手に決めるのはどう考えてもおかしいわけです。子どもにも意思があり、自分の人生があり、幸せを模索する権利があるはずです。幼い子どもに自分が期待する人生を押し付けて、親子鷹の美談にするのはおかしいわけです。
親が子どもを導くこと自体が悪いことではありませんが、子どもには甲子園を目指してほしいから甲子園常連校に入学させたり、子どもに音楽の才能を見出して有名な先生のところに通わせるのはOKだとと思います。子どもに機会を与えるのは親の仕事ですが、人生を決めつけてそれ以外の選択を許さないというのは間違いです。
これから2020年の東京オリンピックに向けて若いアスリートたちがさらに注目されるでしょう。子どもの意思を無視した親のエゴを美談にするのではなく、あくまで子ども自身が、いくつもある選択肢から自分で選んだうえでその道を進んでてほしいと思います。
子どもは親の所有物ではなく、意思のあるひとりの人間です。子どもの人生から選択肢を奪い、間違った強制的な英才教育が美談にならないように注意しましょう。
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