「今だけ、金だけ。自分だけ」と言う言葉があります。そしてにこれまでの自分の歩みを振り返るのです。私が20余年暮らしたアメリカを自らの意思で飛び出したのには様々な理由がありますが、その中の一つが「圧倒的な不公平感」でした。当時、連日のように週6日、1日12時間以上働いていました。250時間を確かに超えていましたが。とんでもない生活だったと思うのです。
シリコンバレー(サンタクララ市)に創業したことで、そんな矢先に違う世界があることに気付いたのです。いわゆる金融資本主義の世界です。そしてITの世界がこれに続きました。私の目から見ると、どう考えても同級生の中では劣等生であった友人たちが次々にそこで成功していったのです。
要するに株式や商品(コモディティー)で大金を稼ぎ始めたのです。しかし、流通のフォワーダー業を運営していた私といえば、「日米の流通を担っている」などという虚勢を張る余裕がないくらい毎日休み暇なく働いていたのです。1995年当時、いつしかグーグルやヤフー、アップルなどのIT企業の自社ビルが立ち上がり、IT長者たちやそれを踏み台にして一攫千金を成し遂げていくファンドマネジャーたちを横目に、私はこう思ったのです。
「なぜあいつらが年収20万ドルで、この自分がたったこれだけなのか?」
会社を経営し、利益を少しずつでも出していたので決して貧しかったわけではありません。こんなことを表向き言おうものならば、「アベノミクス」によって階層分化が激化した今なら大変なことになっているでしょう。しかし、事実、私はそう思ったのです。だから、自分自身で、そうこの自らの手だけで稼ぎ出すことに決めたのです。そして、誰に頼ることもしないという条件付きです。
おかげさまで何かに導かれているように事業は立ち上がり、株式会社も設立・運用すること17年が過ぎました。正直、何だかよくわからない日本という国で、当時はもがき苦しみました。時には私を慕い、寄り集ってきてくれる部下たちに答えを求めても、何も出て来ないことなどしょっちゅうでした。
しかしこれは考えてみれば当たり前のことであり、枠組みをゼロベースで創り出すのはリーダーである私しかいないのです。だからこそ代表取締役社長なのであって、枠組みを創り出す部下がいたならば、自分で起業していたに違いないからです。
しかし、悩みも突き抜け始めると一筋の光を目指し始めるのです。私の場合はこうでした。アメリカ西海岸に静かに暮らす私の先生が、日本で暮らす私にアドバイスをしてくださいました。今思えば、あれが決定的な転換点だったです。例えば、ある大都市に新規開校するためには、Atlasのブランド力が低いために値段をアッと驚くくらいに下げなければなりませんでした。顧客数が増えない限り、せっかくじり貧になるので、これは非常手段でした。
しかしそれ以上に「値段を下げても顧客は増えないのではなかろうか」という思いが強すぎると、絶対にうまくいかないのです。しかも「だから価格を高いままにして、資産が失われないようにしよう」などと想ってしまっては絶対にいけないのです。やるならば、ここだと思った瞬間に斬り込んでいくべきなのです。すると不思議なくらいに大きな塊が掌中に落ちて来ます。こだわる心を消し去ったことによる効用そのものです。
「こだわる」とは、欲望の塊である自分に対する執着心のことです。金銭欲、権力欲、食欲など、この世に欲望は無限にあります。しかし実に不思議なのはこうした欲望を1つ、そしてまた1つ、手放していけばいくほど、かえってこれらが手に入って来るのです。
アメリカを自らの意思で飛び出し、右も左もわからない日本でやり始めてから早いもので17年が経ちますが、そこでの経験をまとめていうならば要するにそういうことだったように思うのです。こだわりを捨て、欲望を捨て、真っ直ぐに自分を悩ませているものとの対話を行うことです。
私が個人様であれ、企業様であれ、あるいはそれ以外の様々な方々に対して行っていることとは、結局のところこの一点に絞られているように思うのです。時間の整理と空間の整理を行い、日々大切なものを確保していく。そうすると不思議と欲望が一つ、そしてまた一つ、剥がれ落ちていくのです。
しかし今度は逆に「出と入りの論理」によって、むしろかつて望んでいたものが、時には山のように手に入るようになるのです。しかしここで溺れてしまわず、欲望を根絶し、さらに清浄な気持ちを目指して邁進するのです。私は、出会う皆様全てが是非そうあってほしいと心から願っています。
私が生業としていることとは、結局のところただそれだけなのです。格好の良い大手英会話スクールとは全く違うし、グローバリズムを連呼する欧米人のやり方とも違います。むしろそぎ落としていくのをお手伝いするだけなのですが、これが私のなすべきことであり、進むべき道だと強く信じています。
多くの人、例えば、社員や外国人講師、そして会員様はどうやら表向き語られている「悩み」はフェイクであり、深い自分だけの欲望がその奥底には見えるのです。私はそのことをある意味暴力的なまでに指摘することがあります。この辺りのやり方について、私は余りにも下手なのです。
しかし、ある意味、この素直さや研ぎ澄ました感受性によって瞬時に感じたことを表現することこそが、私にしか出来ないことなのではないかとも感じています。それにしても、もっとうまいやり方はあるでしょう。欲望を完全に捨て去り、今目の前を流れる気や水と同じように全ての人々から受けいれられるやり方です。その意味で求道の日々は続きことになります。今日も、明日も、そして数年後もです。
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